「収録を終えて」 講師のことば

『平家物語』 千葉大学名誉教授 栃木孝惟

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『平家物語』 千葉大学名誉教授

栃木孝惟

収録を終えて

講義の中で『平家物語』の諸伝本についてお話ししましたが、今回、採り上げた覚一本系統高野本と呼ばれるテクストは、十二巻の本文の後に灌頂巻と呼ばれる一巻を備えています。冒頭の祇園精舎の章段に呼応する重要な巻で、祇園精舎の章段以降、巻十二までの物語世界は、祇園精舎の章段と灌頂巻に潜められている物語の基本思想にとり包まれています。今回の講義で、最も腐心したところは、祇園精舎と灌頂巻の照応関係、建礼門院の物語の重要性の説明、とりわけ女院が経歴した六道の世界のうちの畜生道の世界の考察に新たな鋤を入れようとしたところでした。仏教用語の多い灌頂巻は『平家物語』を読む者にとってなかなかの難関箇所ですが、うまくお話しできたかどうか、皆様のご判断に委ねるしかありません。

広大な時空間を対象として描き出す『平家物語』の世界はその登場人物も数百人を超え、主要な人物に限っても多く、今回は、物語の重要な一本の動脈として平氏の嫡統重盛、維盛を軸にし、清盛に関しては、遊女往生を語る「祇王」の章段と重盛との絡みの中で採り上げるにとどめました。清盛を正面から採り上げれば、全十五回すべてを清盛の話材で埋めることも可能なためです。今回の講座では、源氏関連の章段は除外し、平氏の人々、あるいは、平氏所縁の章段で講座を構成しましたが、平氏滅亡を語る壇ノ浦の一段は外すことのできない場面です。この章段をお話しするに際しては、安徳天皇、二位殿時子、平知盛というこの章段を背負う重要な人物を壇ノ浦以前、これらの人々が物語世界に於いてどのような過去を背負っていたか、そのことに留意することによって、これらの人々の滅亡のドラマを深く掘り起こすことを目指しました。

『平家物語』は治承寿永の乱という歴史的事件を素材とし、登場する人物も、多く実在した人物と重なりますが、物語は歴史を復元したものではありません。その実態は講義の中で史書・公家日記などを援用し、かなり克明に明らかにしましたが、物語は物語の名の通り、時に意図的に歴史を離れ、歴史を変形し、また物語的興趣の増進のためにはあえて曲筆することに躊躇しません。それらの虚構は、そうした虚構を構えることによって人間存在の機微、事実を越え出る歴史的真実をより感動的に描き出します。物語の本領と言えましょう。今回のお話もできうる限りそうした物語の本領を掬い取るように努力しました。

今回、テクストとした高野本は、琵琶法師の語りに適合するように詞章・韻律に工夫が凝らされた、そして内容的にも完成度の高い本文(テクスト)です。朗読の上でも、現代語訳においてもできうる限り、そうした特質を損なわないように努力をしてみました。 以上、講義に際して、留意したところを記してみました。

2024年10月1日改訂