「恩師と私」 大学で講師に学んだ卒業生のエッセイ集

古文講師・演出家 西村雪野 「異界」と「自由」―多田一臣先生と長島弘明先生―

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「異界」と「自由」―多田一臣先生と長島弘明先生―

古文講師・演出家 西村雪野

古文講師・演出家 西村雪野

私にとっての「最高の恩師」は、お二人。『万葉集』講座ご担当の多田一臣先生と、『奥の細道』講座ご担当の長島弘明先生です。

この度、多田先生の『万葉集』講座の七回までを受講しました。狂言で鍛えた素晴らしいお声も、ワクワクする「余談」も昔と変わらず懐かしく、「ギックリ腰」が結ぶ多田先生との出会いを思い出しました。

東京大学入学時、私はフランスに憧れていました。神田川をセーヌ川に見立て、聖橋の上でシャンソンを口ずさんじゃったりして…。さて、二年生の時、掃除のバイト中に「ギックリ腰」に襲われ、整体治療に通い始めました。ちょうどその頃、次年度からの専門課程として、フランスの文学、哲学、社会学、何を選ぶか悩んでおり、整体の先生に相談。するとその方は、なんと、こう“託宣”したのです。

「あなたの体は西洋のものに向いていない!日本のものを学びなさい!」
「ええッ!?」
想定外でしたが、「では、フランス文学から影響を受けた近現代の作家を研究しよう」と思い、国文学を専攻することとしました。

国文科での初日。ずらりと並んだ教授陣が、各自のご専門についてご紹介。もちろん私は近現代文学に手を挙げる…つもりだったのですが、キラキラとオーラが輝き、熱意がほとばしる、一人の先生に惹きつけられてしまいました。その方こそ「上代文学」ご担当の多田一臣先生。私はそれまで『万葉集』や『古事記』を「つまらない…」としか感じたことがなかったのに、迷わず「上代に行きます!」と手を挙げたのです。

多田先生の講義は、衝撃的でした。「道」「衢(ちまた)」「市」などは異界と繋がり、呪力を持つ場である、「みどり」は生命力が満ちているさま…。幼い頃に感じていたのに忘れてしまった不思議な世界が、先生のお話で鮮やかに蘇りました。私にとって、多田先生の講義は、まさに「懐かしい異界への扉」を開く鍵だったのです。

自分が「この世ならぬ世界」と繋がっているという感覚は、この世を生きてゆく力をくれます。飛ぶ鳥が亡き魂を運んでくれることや、「オモフ(思ふ)」とは「対象に働きかけ、対象を引き寄せるマジカルな心の作用」だと分かっていることは、人をどれほど勇気づけることでしょう。

私は大学受験予備校で古文講師をしておりますが、生徒さん達に、「昔、男が女のもとに夜に訪れて、朝に帰る『通い婚』だったのは、男が神で、女が巫女だからだよ」「苦しい時はブランコに乗ってごらん、空中にある呪力がキャッチできるよ」…。そんな話をすると、生徒さん達も、自分たち自身が聖なる存在であり、力はすぐそこにあることに気づいて、目を輝かせます。

また、私は夫である佐藤健作というソロ和太鼓奏者と共に舞台創りをしております。「日本の芸能は、単なるパフォーマンスではなく、異界からの力をこの世に取り入れるワザである」という私たちの信念も、多田先生に出会ったからこそ生まれたものです。

私は、四十代半ばを超えた時、多田先生が東大を定年退職された後に教鞭をとっていらした二松學舍大学大学院に入学し、先生の教員生活最後の一年、再度ご謦咳に接することができました。多田先生が御退任の際、次に着任される近世文学の長島弘明先生について「滅多にいない“大”学者。講義も本当に面白いから」と、師事することをお勧め下さいました。

そして、お言葉に違わず、愛と情熱溢れる長島先生のお話に魅了され、授業初日から五年間、ずっと私は大興奮し続けでした。
「江戸時代は、ダ・ヴィンチみたいな天才がいっぱいいてね…」
桁違いに魅力的な文人達について、とりどりのお話が生き生きと繰り広げられ、「もっと聞かせて下さい!」。授業時間が終了した後も、子供のように先生にせがみ、ヒヨコのように先生にくっついて回りました。

近世の文人達の書いた文章や句が、どれほど細やかで、豊かな教養に支えられ、人情の深い所に達しているか。長島先生の天才的な解説によって、思いもよらない世界が開かれていくのは、まさに「魔法」でした。ちょっと前の日本に生きていた、闊達に躍動する「精神たち」に出会うたびに、「何て自由なんだ!」と驚き、自分の魂にも羽が生えたかのよう。人間の可能性を感じ、喜びと希望で胸がいっぱいになりました。

大学院での楽しい六年間はあっという間に過ぎ…。偉大な国文学者であるお二人の先生からご指導頂くという僥倖を頂いたお陰で、博士論文を執筆、文学博士号を取得できました。しかし、学位よりも、多田一臣先生と長島弘明先生から頂いた「異界への鍵」と「自由の翼」こそ、私にとって真の宝物です。

いくつになっても、学ぶことは、しっかり身の詰まった幸せをもたらし、自らの魂を救ってくれます。私は、目下、恩師お二人の『万葉集』講義の後半と『奥の細道』講義がアップされることを、とても楽しみにしています。あなたもどうぞ、ご一緒に学んでみませんか。


西村雪野プロフィール

東京大学文学部日本文学科卒業。二松學舍大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。代々木ゼミナール古文講師。著作に『解法古文単語350』(数研出版)、『古典文法マスタードリル』(文英堂)など。和太鼓奏者・佐藤健作(東京2020オリンピック閉会式にて大太鼓ソロ演奏)の和太鼓公演「ちはやぶる」、文化庁芸術祭賞受賞公演「不二」、及び海外公演など多くの舞台の演出を手がける。